映画感想

映画の感想

「ハゲタカ」(2009)

・主演の大森さんの顔つきや鼻声が、切れ者である鷲津という役柄にあまりあっていない気がした。

・「不幸は金がないことと金がありすぎることから生まれる」というような内容のセリフは、そうかもなと思った。

・アカマ自動車=トヨタ、スタンリーブラザーズ=リーマンブラザーズだとすると、話のスケールが相当大きいはずだが、物語が個人の感情を軸に進むので、世界経済が動いているという臨場感をあまり感じられなかった。

・新聞の一面=重大な出来事、という描写。ワンパターンに感じられる。

・最後中国の人たちが死者の弔いのために紙銭を燃やしている場面で、本物のお札を燃やしていたけれど、流石に本物のお札は燃やさないのではないかと思った。

M&Aの話としてはそれなりに勉強になった。

 

万引き家族

・疑似家族の貧しくも仲のいい日常がとりとめもなくつづられていく感じ。少年が捕まるまで、問題の深刻さは顕在化しない。

・子供目線で見ると、夫婦を信用していいのかわからないと感じる。

夫婦には過去の殺人にまつわる絆があった、女は不妊であったことから家族のあたたかさに憧れていた、といった事情が後からわかる。

完全にお金目当てというわけではなく、夫婦の子供たちに対する愛情・絆はあるにはあると思う。しかし、おばあちゃんを正式に埋葬せず自宅に埋める、男の子が捕まると一家で夜逃げしようとする、男は、少年に万引きや車上荒らしを教えたことについて「それくらいしか教えられることがないから」と供述する、といった行動を踏まえると、生活の必要や、お金の前には無力な愛情・絆であるようにも思える。

・血がつながっていないからこそのあたたかさというのは確かにありうると感じた。この家族での経験が、子供たちの今後にどのように影響するのかが気になった。

 

シンドラーのリスト

・白黒でよかったと思う。

・何回も繰り返される「選別」において、あの手この手で死から逃げようとするユダヤ人。子供も事態を理解し、大人のようにふるまう。自分もこういった状況におかれたら、生に執着し、何が何でも逃げることができるだろうかと不安になった。

・SSに対し、何をされても脱帽・直立不動の姿勢をとるしかないユダヤ人。何か月・何年間も人間扱いされず、ぎりぎりのところで死の淵に立たされ続けることの過酷さ。ゲットーから強制収容所へと、段々扱いが苛烈になっていくことを考えると、早い時期に突然殺されることも救いなのかもしれないとさえ思えてしまう。

・歴史的・地域的なユダヤ人嫌悪はあるのだろうが、ナチによるホロコーストは、単に戦時中の物資不足の渦中で、豊かなユダヤ人から金品や労働力を搾取できるだけ搾取しようとする意図でしかなかったのだろうと思った。

シンドラーがゲートと仲良くしていたという点、シンドラーが戦前・戦後においては事業に成功しなかったという点が気になった。

映画ではゲートの人間的な弱みが示唆されており、ユダヤ人に対する態度の違いにもかかわらず、シンドラーとゲートの仲が良かった事実を受け入れやすくなっている。もっとも、ゲートのWikipediaを見ると同情すべき人間には思えない。かといってシンドラーユダヤ人救済という目的のために無理やりゲートと仲良くしていたとも思えない… シンドラーの享楽的な側面と、ゲートの孤独がかみ合った結果なのか。

・とにかく賄賂。

 

 

以前、「海街diary」「マイ・インターン」「アマデウス」をみた記憶があるのに、Amazonプライムの視聴履歴にない。どこで見たんだろう…

裏街道

5ちゃんねるで、「占い師は裏街道なんだから深みがほしい」という発言を見ました。「裏街道」というワードがなんとなく気に入りました。そして、占いは「堂々と言ってはいけないことを言う」ためのツールなのかもしれない、と思いました。他に、心理学や流行りの性格診断なども、そうかもしれません。

現代社会の建前は、「みんな平等」「諦めなければ可能性は無限大」「みんな仲良く」「話し合えばわかりあえる」「努力は報われる」あたりだと思います。

でも、これらの建前がいつでも当てはまるわけではないということは、ある程度年をとればわかります。○○人はマナーが悪い、男はこう、女はこう、といった差別偏見は、多かれ少なかれ誰もが持っています。みんな生まれながらに能力や環境に格差があるものです。性格がよくても、家族や同年代と仲良くできないこともあります。いくら話してもわかりあえない人もいるし、努力が報われるとは限りません。

マイルドな差別偏見がユーモアを産み、現実の厳しさや世知辛さが物語を産みます。建前が、無邪気な、希望に満ち溢れた優しさに裏づけられた理想である一方、限られた友人同士で、公の場では言えないようなことを言って笑い、あるいは慰めあうのも、また別の種類の優しさです(「諦め」とも呼べるかもしれません)。

「深み」とは、人間愛や、苦楽を経験してきた年の功を指すと解するのが妥当でしょうか。いずれにせよ、相手をよく見ず、場をわきまえもせずに、無造作に「言ってはいけないことを言う」だけでは、いろいろな人を傷つけるだけで、深みとは呼べませんね。「裏街道」にできること・できないこと、探っていきたいと思います。

 

話が変わりますが、

男女問わず、「頭がいい」ことが褒められる時代です。しかし、いついかなるときも頭が冴えていて判断を間違えないなんてことは、ありえないと思います。自分は常に正しいと確信しているような人がいたら、それはまず勘違いです。

頭の良さはプロセスだと思います。賢くなろう、間違えないようにしようと努力する過程から、不完全・過渡的なものとして、頭の良さが垣間見えるのだと思います。

具体的には、新しいものや自分の苦手なものにあえて触れたり、自分の考えを常に疑う、などの努力が有効だと思います。難関大学を目指す、資格を取る、尊敬できる師匠を持つ、他人と口喧嘩や議論をするといったことも、いい方法だと思います。

頭の良さは、しかるべきタイミングで他人や社会に対して発揮できないのであれば、特に誇るべきものではないと思います。考えたことは、一人で抱え込まず、なるべく外部に表現するようにしたいところです。仮に間違いを指摘されても、それによって次の段階に進んでいくことができるからです。

演劇に触れた思い出

大学に行ったら、今まで縁もゆかりもなかったけれど、演劇を始めてみよう、と思った瞬間のことを今でも覚えています。

たしか、金閣寺という演目の、主役をつとめたV6の森田剛さんが賞賛されているネットの記事をみて、こんな風に評価されるのってかっこいいな、と思うと同時に、自分にも演劇ができるんじゃないだろうか、と感じたのでした。

実際に演劇をかじってみた現在、そう感じた根拠については以下のように考えています。すなわち、役者が評価される理由は、①作品や役柄、人間というものへの理解の深さと、②声や体つき、表現力など、その役者個人の魅力の掛け算にあると考えています。私は昔から現代文が得意だったので、作品や役柄を分析し、理解することはできそうだと考えました。また、人間とはどうあるべきかといったことについてもよく考えていて、持論がありました。そのため、①ならつきつめられそうだと思ったのでしょう。②は楽観的に、頑張れば何とかなると思いました。

実際、演劇という環境に飛び込んでみて、すごくのびのびと息ができました。役者をやっていれば、普段他人から気づかれていても言ってもらえないような、自分自身の様々な側面について指摘してもらえる。舞台のいろいろな準備から小屋入りまで、仲間と密接にかかわりながら、同じ方向を向いて頑張れる。演劇は、それまでどのようにして人と関わればいいのかわからず迷走していた私にとって、正しい方向を指し示し、たくさんの実践の場を与えてくれる、めったにない環境でした。

できるんじゃないだろうか、と思った勘がまあまあ当たったということもありますし、失敗してもいいから自分の意思でやりたいことをやってみる、という態度はすごく大事ですね。

私を演劇に出会わせてくれた運命と、当時の仲間にはとても感謝しています。

 

一方で、演劇を続けることの限界にぶつかる時がやってきました。

  • 役者としての魅力(上記②)が不十分だと感じた
  • 恋愛で承認欲求が満たされた
  • 個々の物語にそこまで魅力を感じないことに気がついた

以上の事情から、演劇への熱は、不本意ながら結構急速に冷めていきました。

 

・役者としての魅力が不十分だと感じた

演技力で評価されたいと思っていたので、そこまで美人でないことはあまり問題ではありません。実際演劇界隈には、美人でなくても評価されている役者がいっぱいいました。しかしながら、変えようのない身体的な素質というものがあるようで、頑張っても評価されるのは難しいかもしれない、という結論に至りました。

具体的には、声が小さいことの他に、感情表現が一般的ではない、身体の動きが自然ではない、といったよくわからない素質があるために、私には「その辺にいそうな人」っぽさがあまりなく、通常そうであるように「その辺にいそうな人」をベースにいろいろな役柄に発展させるには限界がある、と感じました。他の人に比べ、器用でないとも思いました。

・恋愛で承認欲求が満たされた

当時初恋をして、過去の自分との連続性がどこかに行ってしまいました。私の恋愛観は、相手と深い話をしたいという衝動に、好意がくっついているような感じです。気が合う相手とは、自分が思っていることや感じていることを全力で吐き出していいんだ、という発見がありました。演劇や創作でなくても、承認欲求や人間関係の欲求をダイレクトに発散させられる場が見つかって、満足したのかもしれません。

・個々の物語にそこまで魅力を感じないことに気がついた

これが一番本質的な問題かもしれません。演劇という表現形式に合う物語は、登場人物が10人程度のヒューマンドラマであることが多いです。文学なら、壮大な物語や深い哲学をいくらでも表現することができます。映画やドラマなら、映像技術で華やかな表現ができますし、場面転換も一瞬で行うことができます。ところが演劇は、観客の目の前で実演するという特性上、いろいろと物理的な制約があります。それに、演劇で壮大な物語をやられても、たぶん観客は冷めてしまうと思います。

私はもともと、文学が好きでした。文学の壮大な物語や、深い哲学の方になじみがあったのです。演劇のこじんまりしたヒューマンドラマも嫌いではないですが、どうしても他愛のない、とるに足りない物語のように感じました。そもそも、私はエンタメとして物語を消費することを時間の無駄だと思っているようです。私が文学を好んでいたのは、文学が「勉強になる」「役に立つ」からなのだろうと思います。

役者は作品に忠実であることが仕事です。作品が表現しようとしていないことは表現できません。そして、一般的な演劇作品はエンタメです。そこまで魅力を感じていない作品のために努力を続けるのは、難しいと感じました。

 

このようにして演劇と袂を分かった私ですが、未練があるといえばあります。演劇で楽しかった経験を、どう整理したらいいのかいまだにわかりません。以前と同じスタンスで再び演劇に熱をあげても、まったく同じ限界にぶつかると思います。ある種の部外者として、ほどよい距離感でつきあえればいいなと思います。

弟についての愚痴 ※閲覧注意

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・部屋が汚い。

・共用スペースを私物化する。家族に迷惑がかかることに気づかない。またはそのくらいいいだろうと勝手に決めつけている。

・自分は優しい・頭がいいと勘違いしている。

・何か注意されてもヘラヘラするだけで、改善する気がない。言い訳がましい。(特に嫌なのは「教わってないからさ~」みたいな発言。その言い方も、さも自分が正しくて馬鹿な親を諭すみたいな感じ。馬鹿なのはお前だ)

・向上心のなさを欠点だと思っていない。とにかく下を見て安心している。

・部屋にこもってばかりいるのに、自分は周りが見えていると勘違いしている。偉そうに他人の粗を指摘して喜んでいる。

・話がつまらなくて長い。家族が話を聞いてくれて、優しくリアクションしてくれるのが当たり前だと思っている。少し冷たくされただけで不機嫌になる。

・普通を大して知らないのに、自分の判断基準は普通だと思っている。

・自分は何もせず、母親の愚痴を傾聴するだけでいいことをした気になっている。

・自分でものを考えず、他人の真似をする。

 

以前は目下の存在だし、親の理不尽が大きいと思って助け舟を出したりしていました。しかし最近は、親の理不尽は減ってきたのに対し、本人の欠点が目につくようになってきました。いろいろと注意されても聞き流し、ネットの情報だけを頼りに「自分は間違ってない」と自己完結しています。

こういう人とは、社会で他人同士として出会ったとしても、仲良くなりたいと思えない気がします。依存的で、中途半端にプライドが高い。厄介だと思います。

 

2023/8/28 追記

・とにかく偉そう。何かに真剣に取り組んで失敗した、というような経験もないのに上から目線で冷笑的態度をとる。

・理系の学問や仕事について大して熱意もないのに、ただ文系よりも忙しいというだけで理尊文卑的な考えをもっている。また、あまり女性と接した経験もないのに、ネットの風潮に流されて男尊女卑的な考えを持っているように思われる。

・不運な状況でもできることをやろうという気概がない。様々な人と心を開いて接した経験がないから、自分自身に年相応の人生経験がいかに不足しているか気づいていない。気づいていないのに、親の助言など耳に痛い言葉を無視する。

・親と真剣に喧嘩や議論をしたこともないのに、毒親だと思っている。

・現状、人間関係がうまく構築できていないことや異性との交際経験がないことについて不満や焦りを感じているはずだが、妙にプライドが高く、問題を直視していない。

 

勝手な憶測ですが、中学受験の失敗で無気力になり、加えて男子校出身者にありがちな歪なプライドとコンプレックスによってこんな感じの性格になったのかなと思います。

弟がどんなに中身のない人間になろうがどうでもいいのですが、親や物事に対して偉そうな態度を目にするとすごく苛立ちます。まあ、あと数年経てば自分で気づくだろうから、私が今衝突する必要なんてないのですが。

とにかくストレスがたまるのでここに記しています。

専業主婦(夫)について

母が専業主婦で、つねづね幼稚だなと思います(家の中でわがまま放題であるとか、子供の将来に口を出すにしても想定が甘すぎるとか)。

母が専業主婦になったのは、祖父が横暴だったため早く実家を出たかったという事情や、健康上の問題があるようです。

当時は、今よりもインターネットへのアクセスが悪く、男女同権の意識も低そうですから、進路について祖父の言いなりになってしまったのは仕方のない部分もあるのだろうなと思います。企業内部での女性の立場も難しかったのだろうと思います。

母は、ママ友付き合いや家事、子供やペットの世話など、主婦としての仕事は最低限立派にこなしています。しかし、詳述しませんが人としては幼稚だと思います。最近特にそう思います。

 

それはさておき。

専業主婦についてちょっと検索すると、「専業主婦 世間ズレ」「浮世離れ」といったサジェストが目に入りました。実際、何十年も子育てや家事、せいぜいパートくらいしかすることがない生活が続くと、学生や社会人のように勉強しなければならない理由もないため、社会に疎くなる部分はあると思います。

それを思うと、専業主婦にはあまりなりたくないなあと思ってしまいます。

他方で、子供が心身ともに健康に育つためには、共働きよりもどちらかが専業主婦(夫)のほうがいいのだろうなと思います。共働きだと、余裕をもって家事をこなすことが難しく、子供の行事に割く時間・心の余裕ができないだろうと思うからです。

 

そうだとすると、専業主婦(夫)は人類が存続していくために必ず生じる犠牲のような存在なのかな、などと考えました。

難しい問題だと思います。望んで主婦(夫)になる人もいます。主婦(夫)の立場で学生や社会人と同じように勉強しろというのも、無理がある気がします。

専業主婦(夫)が、必然的に世間に疎くなってしまうものだとしても、主婦(夫)を一方的に批判すべきではないと思います。また、多くの人が、やむを得ない事情によってではなく、主体的に主婦(夫)になること又はならないことを選択できるといいな、と思います。

布団で考えたこと

明日から天気悪くなるみたいですね。

 

先ほど、どうして女に生まれたんだろうと思いながら少し泣いてしまいました。

男は女と対等の立場で対話できる、分かり合えると思っているかもしれないけれど、それは勘違いです。分かり合う必要なんてなくて、それぞれの役割を果たせばいいのだと思いました。

 

abemaTVでバラエティ番組を少し見てみました。

見た範囲では、言い方は悪いですがくだらない企画が多いなと思いました。バラエティ番組は、芸人同士の気まずさや芸能人の普段隠してる部分、しょうもない過去なんかをとりあげて視聴者の興味をそそり、笑いに変えようとすることがよくありますね。そんな内容ばかりだと、普通の飲み会でのぶっちゃけ話を聞いているのと同じです。ただ、芸人の技術によって多少無難にまとめられ、予定調和的に笑いが発生するようになっているというだけです。

みんな、人の心理や心の奥に触れることに飢えているのでしょうか。

 

先日、もともと住んでいた街を訪れました。こっちではあまり見ない植物や鳥が多く、それらを目新しく感じたことがショックでした。

 

少し嫌いだった大学の同級生のことを思い出したりもしました。場を仕切ることに慣れているのか、よほど私がぼんやりと何もしないでいるように見えるのか、上から目線で命令してくるのが嫌いでした。私の嫌いな業界に就職したので、その人のことを嫌いだったことも間違いではなかったのかな、などと思っています。

多少恩もあるのでこの辺にしておきます。

 

母は今思うと結構世間知らずなのに、どうして昔はあんなに偉そうだったんだろう、と思います。頭の中にある理想や、自分だったらこうする(こうできるはず)という想像を妄信していて、おめでたいなと思います。

 

身内や同じ国の出身者を「誇りに思う」人は、自分を誇れないことを恥ずかしいと思わないのでしょうか。「誇りに思われる」側の迷惑を考えないのでしょうか。最近テレビで例の野球選手がやたらと持ち上げられているのも、なんとなくイヤだなと思います。

 

大学受験の時の塾の先生が、難関大に「10代で」受かるのが特別なことなのだと言っていました。時間をかけて勉強すれば、難関大に受かるのは難しくないということです。

私もそう思います。高校までの乏しい経験知で、思春期のフラストレーションも溜まっているさなかに難関大に合格することが特別なことなのです。つまり、早熟であることが評価されているということです(それが実際、どの程度評価に値することなのかは不明です)。社会人としての経験を積み、世の中のことを知り、思春期も落ち着き、努力の仕方も身に着ければ、大学受験なんて簡単なのだろうと思います。

卑屈になる必要はないということです。

引越しのやりかた 覚書

タイトル通りです。わかる部分だけ

 

1 引越し先の物件を探す

主にインターネットで探す。月の負担額は賃料と管理費を合計した額を見る。駅から近いかどうか、オートロックかどうか、何階か、築年数、どこが設計・施工したか、入居可能日など、気になる条件を満たしているかチェックする。

めぼしい物件があれば、早めに不動産会社に連絡して内見を申し込む。契約を申し込む場合も、早ければいいに越したことはないが、個人情報が不動産会社にわたるのを気にするならば慎重に。釣り物件や、床面積を盛っていることもあるので注意。

2 引越しにかかる費用の見積もり

ベッドやボードなど、大きめの家具の個数が料金に最も影響すると思われる。

当日の荷物が思ったより少なくても、見積もりで必要と考えられた分の車両や人員はすでに派遣されてきてしまっているからか、減額はされない。同様に、必要車両が増えない限り、増額もされない。

3 転居元のガス・水道・電気をとめる手続

4 転居先のガス・水道・電気を開通する手続

5 荷造り~前日夜

適宜いらない物を捨てる。時間がかかる。

すぐに使わない物から詰める(季節外れの服など)。書籍は段ボールいっぱいに詰めると重いので、タオルや衣服とまぜこぜにして軽くする。お皿を緩衝材で包むのが大変そうだった。掛け時計も割れ物なので、緩衝材で包む。割れ物入りの段ボールには割れ物と書く(段ボールにその記載欄があった)。

ある程度の大きさの引き出し類はそのまま運んでもらえるが、引き出しが飛び出たりしないように養生テープを貼っておいた(当日は、小さめの引き出しは引越し屋の人が段ボールに詰め、サイズが合わなくても上の方を折ってなんとかしていた)。

段ボールや家具には、養生テープで転居先のどの部屋においてほしいかを書く(当日、引越し屋さんに、転居先の間取り図に部屋の呼称やおおざっぱな家具配置を書いたものを渡す。引越し屋さんはそれを見て作業してくれる)。

引越し作業中に紛失があった場合、すぐ気づかないと困るので、段ボールに通し番号を書いておく。すぐ使いたいものを詰めた段ボールには、何かしら印をつけておく。

前日から当日にかけてどうしても必要なもの(服など)や貴重品は、手荷物として軽いキャリーケース等に入れることにする。枕や布団は当日の朝、専用の袋に入れる。

前日の夕方に冷蔵庫が止まるので、冷凍食品を消費する。炊飯器でお米を炊いている暇はないので、パンや既製品のおにぎりなどを食べる。ご飯は買っておくと便利そう。

洗面所やトイレ、台所などの共用部分の荷造りを忘れないこと。

6 引越し当日

朝早くから始まる。転居元では、引越し屋さんに適宜、何を運んでほしいか、運んでほしくないか指示する。荷造りを忘れていた場合はその場でやってもいい。

転居先では、家具配置についての希望を言う。

搬入が終わったら荷ほどきの段階になるが、すぐに全部を荷ほどきしてはいけない。棚などの家具に物を詰めず、軽いうちに床にカーペットを敷く。また、遅れて新しい家具が届いたりエアコンを取り付けたりする場合には、その便宜も考える。

当日の夜も、ご飯を作ったり買ったりする暇がないので、あらかじめ買ってあるとよい。

7 その後

賃貸の場合、原状回復でもめないために、入居当初から汚れていたり傷がついている部分の写真をとる。

ケーブルテレビや無線LAN、電話回線などもろもろの回線を契約する場合の手続と作業がある。

上下と同じ階の住人に、軽いお土産を持参してあいさつ回りをする。

転居先の住所や電話番号、ポストの開け方、ゴミの捨て方等を確認する。各人に鍵を渡す。転居先周辺を散歩したりして、新しい生活に馴染んで行く。