裏街道

5ちゃんねるで、「占い師は裏街道なんだから深みがほしい」という発言を見ました。「裏街道」というワードがなんとなく気に入りました。そして、占いは「堂々と言ってはいけないことを言う」ためのツールなのかもしれない、と思いました。他に、心理学や流行りの性格診断なども、そうかもしれません。

現代社会の建前は、「みんな平等」「諦めなければ可能性は無限大」「みんな仲良く」「話し合えばわかりあえる」「努力は報われる」あたりだと思います。

でも、これらの建前がいつでも当てはまるわけではないということは、ある程度年をとればわかります。○○人はマナーが悪い、男はこう、女はこう、といった差別偏見は、多かれ少なかれ誰もが持っています。みんな生まれながらに能力や環境に格差があるものです。性格がよくても、家族や同年代と仲良くできないこともあります。いくら話してもわかりあえない人もいるし、努力が報われるとは限りません。

マイルドな差別偏見がユーモアを産み、現実の厳しさや世知辛さが物語を産みます。建前が、無邪気な、希望に満ち溢れた優しさに裏づけられた理想である一方、限られた友人同士で、公の場では言えないようなことを言って笑い、あるいは慰めあうのも、また別の種類の優しさです(「諦め」とも呼べるかもしれません)。

「深み」とは、人間愛や、苦楽を経験してきた年の功を指すと解するのが妥当でしょうか。いずれにせよ、相手をよく見ず、場をわきまえもせずに、無造作に「言ってはいけないことを言う」だけでは、いろいろな人を傷つけるだけで、深みとは呼べませんね。「裏街道」にできること・できないこと、探っていきたいと思います。

 

話が変わりますが、

男女問わず、「頭がいい」ことが褒められる時代です。しかし、いついかなるときも頭が冴えていて判断を間違えないなんてことは、ありえないと思います。自分は常に正しいと確信しているような人がいたら、それはまず勘違いです。

頭の良さはプロセスだと思います。賢くなろう、間違えないようにしようと努力する過程から、不完全・過渡的なものとして、頭の良さが垣間見えるのだと思います。

具体的には、新しいものや自分の苦手なものにあえて触れたり、自分の考えを常に疑う、などの努力が有効だと思います。難関大学を目指す、資格を取る、尊敬できる師匠を持つ、他人と口喧嘩や議論をするといったことも、いい方法だと思います。

頭の良さは、しかるべきタイミングで他人や社会に対して発揮できないのであれば、特に誇るべきものではないと思います。考えたことは、一人で抱え込まず、なるべく外部に表現するようにしたいところです。仮に間違いを指摘されても、それによって次の段階に進んでいくことができるからです。