お店探しを頑張ってる。
人と会食する予定が私にしては多い。会食に参加すること自体には慣れてきて、それなりに楽しいときもある。たくさん会食予定がある人は交友関係が広そうで羨ましい。
会食の会話はサシの会話とは違うので、なんでもかんでも口に出すわけはにいかないし、話すタイミングを探るのが難しくてピリピリする。会話内容についていけないときは、みんな張り合って背伸びしてるだけなんじゃないかなんて考えてしまう。
映画やアニメ、新聞やYouTubeを見たりして、新しい情報を仕入れるのにも飽きてきた。そういうもの全般について「なんとなくわかった」感があるのかもしれない。そもそも中高年になったら脳が疲れてみんなそんな感じになるだろうから、私の現状もその前倒しみたいなものか。
とはいえ、何を頑張ればいいのかわからなくなってしまって困る。いったん哲学や文学のような抽象的・情緒的ですぐ何かの役に立つわけではない活動を挟めば、また具体的な情報を仕入れてもいい気分になってくるかな。
昨日ヒトカラをしたけど、そこまで楽しくなかった。数年前は楽しかった。ヒトカラや音楽に慣れてなかったからなのか、演劇をしていたから感情が出やすかったのか。
こうして気分転換の手段がなくなりそうになるのはなぜなのか。
そういえば、口ずさむ風の歌い方と歌がうまい風の歌い方って全然違う。それと同じことが、ツイートや口頭での会話ときっちりした文章との間にもいえる気がした(今)
脳が疲れてる感じがする。気持ちを新たに「よし頑張ろう!」って感じにならない。11月後半がいろいろ立て込んで忙しかったり、親とまたもめたりしたからかな。
個人的に心の支えにしていた人との会食も、なんとなくがっかりすることがあった。私の自己開示が少なすぎるのが悪いのか。自己開示の少なさ。口頭では少なくなってしまうとか、とろいのでタイミングを逃してしまうとか、留保はつけられるけれども。
自己開示なんかして何になるんだろう。
めんどくさがりで前向きな気持ちがないのに、外できちんと振舞っている自分を見ると案外まともだったりして、その時は頑張ろうという気持ちになる。家に帰ると……
数年前はできなかったことができるようになった。会話とか、人間関係とか、やることをやるとか、早寝早起きとか。当分それ以上のことを望む気になれないのかも。
友人には自分の無気力・虚しさをうつしたくない。
家族が嫌いだという感情は単なる執着なのだろうか。同居しているから、毎日顔を合わせるたびに不愉快な出来事を思い出す。それが執着になってしまうのも仕方ないんじゃないか。私がこれだけ嫌っているのだから、向こうからも嫌ってほしい。そういう双方向性がないのが、この家族の一番嫌いなところ。
私と同じ目にあってほしい。同じ気持ちになってほしい。
最近少し大きな出来事があったけれど、大きな出来事があると記憶飛ぶのって普通なのかも。視点が変わるともいえる。